存在論的に多、契約的に一 3


<Perter様>
度々ですみません。以前にも伺いましたが、ウイットネス・リーは、原罪とは人の肉体に住んでいるサタンであると言っているのですね。サタンは自分自身を人に注入し仕込んだと言っています。非常に危険な思想と思われますが、次の主張をどう判断すればよいでしょうか?改めて確認させてください。フットノートとあるのは、彼らの回復訳聖書のものでそうです。


102 :名無しさん@3周年:2006/04/11(火) 19:33:23 ID:H4p8rgp7

1.罪(単数形)はいわゆる原罪のことで、パウロはこれを人格化した表現をしているから罪はペルソナを持つ存在である。
2.同様に恵みもやはりペルソナを持ち、内住のキリストのことである。
3.つまり罪も恵みも人格を持っているというわけで、罪はサタンだ、で、パウロは罪は肢体にあると言っている、だから人の体にはサタンが住むと言いたいのでしょう。

ここまではこの理解でいいでしょうか?安さん。


103 :安得烈 ◆btXULJ2X8M :2006/04/11(火) 20:10:21 ID:QGB48dgS

さて、ではサタンの受肉についてです。
>>102のまとめは、そのままで結構です。

137 :名無しさん@3周年:2006/04/12(水) 21:02:28 ID:sOhjHqjO
ローマ5:12 こういうわけで、一人の人を通して罪がこの世に入り、そして罪を通して死が入ったように、すべての人が罪を犯したために、死がすべての人に及びました――

【一人の人】のフットノート
すなわち、アダム、最初の人、全人類の祖先。彼は罪を通して死をもたらしました。アダムとは対照的に、キリスト、第二の人(Tコリント15:47)は、義を通して命をもたらされました(17−18節)。

「通して罪がこの世に入り」の【罪】のフットノート
原文は単数。11節(11節)までは、複数の罪が取り扱われてきました。12節(12節)からは、単数の罪が取り扱われます。第5章から第8章で、罪は人格化されているかのようです。罪は単なる行為ではなく、人のようであり、入ってきて(12節)、支配し(21節)、人を支配し(6:14)、人を欺いて殺し(7:11)、人の中に住み、彼らの意志に反してさまざまな事を行なわせます(7:17,20)。 罪は生きていて(7:9)、極めて活発です。ですから、罪は悪しき者サタンの邪悪な性質であるに違いありません。サタンは、アダムの堕落を通して人の中に自分自身を注入し込み、今や堕落した人の中に住んで、活動し、働いている罪の性質そのものとなったのです。この内住している、人格化された単数の罪の性質は、すべての外側の、複数の罪の行為の根源です。


<tomi>
原罪とは、サタンではなく、アダムが神に反逆したという倫理的罪のことです。
我々は生まれながらアダムと契約的に一体ですので、我々も生まれながら罪を犯しています。
この行為罪を犯す前に持っている、契約的一体のゆえに巻き込まれている罪、これが原罪です。

全人類は、原罪を持っています。
それゆえ、そのままでは永遠の命にあずかることができません。
我々は、契約の主をアダムからキリストに変えなければなりません。
キリストを契約の主として受け入れ、彼と一体である教会に加わるときに、我々は原罪のない者に変わります。
そして、キリストと契約的に一体ですので、我々はキリストが獲得した永遠の命に与ることができます。

原罪をサタンに置くことは、「問題はサタンにあって、我々にはない」とすることになりますから、悔い改めができません。サタンこそ問題の根源だ!と主張することによって神の前に頭を垂れる必要がなくなります。

この「悔い改めぬきの救い」こそ、サタンが提供しているものです。

我々は、聖書が教えるように、「我々こそ問題である」と言わねばなりません。たとえ、アダムが犯したにしても、我々も契約的に罪人であり、また、数々の行為罪を犯しているのですから、悔い改める以外に道はありません。

 

 

2006年4月13日

 

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