イエスの絵画は偶像礼拝である



あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。
それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、
わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。(出エジプト記20・4-6)

偶像と訳されているヘブライ語peselの語源はpasalで、これは

to hew, hew into shape
(斧などで何度もたたき切る、たたき切って形を作る)

https://biblehub.com/hebrew/6458.htm

という意味である。

つまり、peselは、北海道のお土産品の「木彫りの熊」のように、斧などで削って作り上げた像である。

「自分のために、偶像を造」ること、つまり、自分の願望に合わせて斧などで削って作り上げることが禁止されている。

「拝んではならない。それらに仕えてはならない」とあるので、「自分のために」は、「神として礼拝し、服従するために」と同義。

偶像の製作は、「自分の願望に合わせて神を定義する」行為である。

つまり、偶像製作者は、神の上に立っている。

彼は、神に命令している。

「あなたは、こういう方でなければならない」と。

聖書の中で気に入らない箇所があると「いや、私が期待している神はこんなお方ではない」と無視する。

自分の気に入る部分だけを信じるので、その人の聖書は、虫食い状態である。

真のクリスチャンと偽クリスチャンを区別する一つの方法は、「この箇所はどう解釈するのか。あなたの考えと矛盾しているが」と尋ねることである。

たとえば、マタイ24章を世界の終末預言と考えているディスペンセーション主義者に向かって次の聖句を突きつける。

まことに、あなたがたに告げます。これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。(マタイ24・34)

ここで、はっきりと「再臨の前兆はこの時代のうちに起きる」と言われている。

つまり、マタイ24章は「再臨は紀元1世紀に起きた」と明言している。

どう理屈をこねくり回しても、この事実を変えることは不可能である。

この箇所を無視して「世の終わりは近い」と唱えるあらゆる教会は、偶像礼拝の教会であって、そんな教会に通うことは信仰を捨てたのと同じである。

「いや、世の終わりは近いのだ!あなたがなんと言おうと!」と開き直ったら、もはや、かける言葉がない。

滅びに巻き込まれないように、遠ざかるしかない。

誰でも、自分の考えを聖書の上に置く人は、偶像製作者である。

予定論を否定する人も、偶像礼拝者である。

その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行なわないうちに、神の選びの計画の確かさが、行ないにはよらず、召してくださる方によるようにと、
「兄は弟に仕える」と彼女に告げられたのです。
「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」と書いてあるとおりです。
それでは、どういうことになりますか。神に不正があるのですか。絶対にそんなことはありません。
神はモーセに、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ」と言われました。
したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。(ローマ9・11-16)

「まだ生まれてもおらず、善も悪も行なわないうちに、・・・『兄は弟に仕える』と彼女に告げられたのです」

まだエサウもヤコブも生まれる前に、神は「兄は弟に仕える」と決定された。

歴史とは、神が一方的に配役と筋書きを決定した演劇のようなものである。

舞台に登場する役者である人間は、その定められた役回りを演じるだけである。

役者の自由な行動で、筋書きが刻一刻と変わっていく即興劇のようなものではない。

誰が救われ、誰が滅びるかも、すでに神が永遠の昔に決定された。

また、それは、すでに撮り終えた映画のようでもある。

われわれが毎日体験する出来事は、すでに永遠の昔に撮り終えた映画を銀幕の上に見ているようなものである。

その映画の内容を変えることができないのと同じように、神が決定されたことは変えられないのである。

われわれが自由に行っているかのように考えている事柄も、永遠の昔にすでに決定されている。

神の選びは創造以前に行われた。

すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。(エペ1・4)

聖書は、はっきりと「人間が堕落する前に救いと滅びが予定された」と教えている。

このような聖句を前にして、アルミニウス主義者は「ノー」という。

「そんな神なら信じません」と。

つまり、アルミニウス主義者はクリスチャンではない。

彼らは偶像礼拝者である。

自分の願望に合わせて神を偽造するからである。

イエスの絵をよく見かけるが、これも偶像礼拝である。

なぜならば、自分の願望に合わせてイエスを定義しているからである。

聖書に書いていない姿を想像で描く行為は、すべて偶像礼拝である。

イエスは律法を守られたので、鬢の毛を伸ばしておられたはずである。

ほとんどの絵には描かれていない。

律法に「男子は髪を短く切るべき」と規定されているので、長髪ではなかったはずである。

聖書を無視し、自分の願望を反映した神の姿を描き、信じる行為は、ことごとく偶像礼拝である。

 

 

2019年12月25日



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