新約時代における聖俗の基準



「きよい人々には、すべてのものがきよいのです。しかし、汚れた、不信仰な人々には、何一つきよいものはありません。それどころか、その知性と良心までも汚れています。」(テトス1・15)

今日、「ものそのもの」に聖俗はない。

牛はいいが、豚は汚れているとか、日曜日は聖日だが、月曜日は俗日であるとか。

そういう類の区別は旧約時代のものであって、新約時代には撤廃された。

だから、牧師の仕事は聖だが、販売の仕事は俗だという区別もない。

クリスチャンにとって、すべては聖である。

基準は、「信仰」である。

信仰のある人にとってすべては聖。

不信仰の人にとってすべては俗。

クリスチャンでも、「信仰によらない行為」は罪であり、汚れている。

どんなに正しいことでも、信仰によらないならば、汚れる。

子供の教育は正しいことだが、信仰によらないならば、罪である。

たとえば、進化論や、切迫再臨を人に教えるならば、罪になる。

神に対する忠実という枠組みから出たもの、聖書の基準に基づかないものは、すべて罪であり、汚れている。

しかし、疑いを感じる人が食べるなら、罪に定められます。なぜなら、それが信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪です。(ローマ14・23)

他方、信仰に基づく確信によって行うならば、すべてはきよい。

それは、神の国を増進させる。

だから、牧師の仕事は神の国の役に立ち、世俗の仕事は役に立たないという区別はできない。

すべての仕事は、それを信仰によって行うならばきよくなり、神の国に役立つ。

触るものすべてが金になる魔法の首輪があれば、首輪を付けた人が触るものはすべて金になる。

それと同じように、われわれが信仰で行うならば、われわれが関係するものはすべてきよくなり、神の国の拡大につながる。

逆に疑いながら行うならば、罪になり、神の国を停滞もしくは破壊する。

われわれの職業は、すべてそれがどのようなものでも神の国のための仕事である。

今日、パレスチナが聖地であると考え、聖地旅行なるものが行われているが、聖地とはわれわれが信仰によって携わるすべての土地である。

われわれが土地を所有して、そこを信仰によって利用するならば聖地になる。

信仰によらないで所有するならば、汚れた土地になる。

新約時代における聖俗の基準は「信仰によるかどうか」にある。

 

 

2014年10月24日



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