2回の再臨を区別しよう


(1)
紀元70年は、第1の再臨である。

そして、世の終わりに第2の再臨がある。

なぜ再臨は2回必要なのか。

律法で、「聖めは2回必要」と書いてあるからだ。


その者は三日目と七日目に、汚れをきよめる水で罪の身をきよめ、きよくならなければならない。三日目と七日目に罪の身をきよめないなら、きよくなることはできない。
身のきよい人が、それを汚れた者に三日目と七日目に振りかければ、その者は七日目に、罪をきよめられる。その者は、衣服を洗い、水を浴びる。その者は夕方にはきよくなる。
あなたがたは七日間、宿営の外にとどまれ。あなたがたでも、あなたがたの捕虜でも、人を殺した者、あるいは刺し殺された者に触れた者はだれでも、三日目と七日目に罪の身をきよめなければならない。(民数記19・12、19、31・19)

罪と汚れは、三日目と七日目の2回の聖めで落ちる。

完全な聖めは2段階必要だ。

罪人は2度の死によって、完全に自分の責任を果たす。

贖われていない罪人は肉体が滅ぶ時に第1の死を体験するが、終末に肉体が復活して永遠の刑罰のところ(火の池)に投げ落とされるときに第2の死を体験する。

永遠の刑罰のところにおいて、はじめて罪人の責任は完全に果たされる。(*)

(2)
新約聖書の終末預言のほとんどは、三日目の聖めが近づいていることに関する預言である。

まことに、あなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、人の子が御国とともに来るのを見るまでは、決して死を味わわない人々がいます。」(マタイ16・28)
イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、神の国が力をもって到来しているのを見るまでは、決して死を味わわない者がいます。」(マルコ9・1)

ここにおいて、「人の子が御国とともに来る」「神の国が力をもって到来しているのを見る」のは、明らかにわれわれにとっての未来の出来事ではない。

なぜならば、「決して死を味わわない者がいます」とあるからだ。

もちろん、クリスチャンはすでに復活しているので、死を味わわないのであるが、もしここでこの意味での「死を味わわない」と言われているならば、「ここに立っている人々の中には」とは言わずに「ここに立っている人々は全員」と言われたはずだ。

だから、ここでの「死」とは、物理的死、肉体の死である。(**)

となれば、「決して死を味わわない者がいます」は、すぐに起きると同義である。

実際、弟子たちの中でヨハネは紀元70年に生き残っていた。

紀元70年に神殿が破壊され、古いシステムが完全に崩壊した。

これが、第1の再臨である。

イエスは、旧約時代を裁くために来られた。

世界は、まず古いシステムの裁きを必要としていた。

紀元70年に正式に新しいシステムが到来した。

これは、ユダヤ人の世界ではなく、諸国民の世界。

民族的経綸ではなく、超民族的経綸。

全世界の人々がイエスのもとに集まる体制。

イエス及びクリスチャンを中心としたニュー・ワールド・オーダー。

12使徒を中心として始まったこのニュー・ワールド・オーダーは、歴史を通じて拡大し、全世界の民がクリスチャンになる。

そして、最後に2度目の聖めが行われ、世界は完成する。

それが全世界に臨むイエスの再臨である。

これは、われわれの未来に起きる。(***)

(3)

旧約世界への裁き→第1の再臨(紀元70年)→第1の新天新地
(現在の世界)

新約世界への裁き→第2の再臨(未来)→第2の新天新地(未来)

この図式が理解できていないと、いろいろ頭の中で混乱が生じる。

マタイ24章、ペテロの手紙や黙示録19章までは、第1の再臨に関する預言である。これを第2の再臨と誤解しているところに、プレ・ミレの誤謬がある。

(*)
なぜならば、彼らは、贖いを拒否し、神の主権を拒否したのであるから、永遠に許されないからだ。

あるシステムを存続させようとしたら、そのシステムの破壊者を永久に追放するしかない。

学校が存続するためには、その学校を破壊する人間を退学にするしかない。

神の世界を存続するためには、神の敵を永久追放するしかない。

永久追放において、裁きは完成する。

(**)
われわれは、この肉体のままでは永遠の世界には入れない。

「御霊の体」に「変えられる」必要がある。

(***)
われわれは、新天新地も2種類あると理解すべきだ。

第1の新天新地は、紀元70年に始まった。

ここでは、死がある。

見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。先の事は思い出されず、心に上ることもない。
だから、わたしの創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする。
わたしはエルサレムを喜び、わたしの民を楽しむ。そこにはもう、泣き声も叫び声も聞かれない。
そこにはもう、数日しか生きない乳飲み子も、寿命の満ちない老人もない。百歳で死ぬ者は若かったとされ、百歳にならないで死ぬ者は、のろわれた者とされる。(イザヤ65・17-20)

しかし、第2の新天新地では死がない。

また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。
そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、また彼らの神となり、
彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや<死もなく>、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」(黙示録21・1-4)

 

 

2012年6月30日

 

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