「終わりの日」の意味


貴重な情報を提供してこられた泉パウロ牧師もプレ・ミレのディスペンセーショナリストであると判明した。

https://www.youtube.com/watch?v=BdmiPpWM6nQ

「この終わりの時代」と言っているからである。

さて、どうしてディスペンセーショナリストは、現代が終わりの時代と言うのだろうか。

証拠聖句は何か。

この時代を「終わり」というからには、「終わり」を示す証拠を提示しなければならない。

しかし、「世界情勢を見たら終わりであるとわかります」ではダメ。

「聖書については聖書に語らせる」が聖書解釈の大原則だから。

聖書以上の権威が存在しない以上、聖書を解釈するのは聖書自身しかない。

聖書で終わりの日とはいつか。

1.

一般に世界の終わりについての預言と解釈されるヨエル2・31は紀元1世紀に成就した。


主の大いなる恐るべき日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。(ヨエル2・31)

ペンテコステの日、ペテロが預言の成就を宣言した。
『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。
その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。
また、わたしは、上は天に不思議なわざを示し、下は地にしるしを示す。それは、血と火と立ち上る煙である。
主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。
しかし、主の名を呼ぶ者は、みな救われる。』(使徒の働き2・17-21)

紀元1世紀の使徒の時代が「終わりの日」である。

2.

この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。
(マタイ24・14)

パウロは、福音が「世界中で」広がり続けていると言った。

この福音は、あなたがたが神の恵みを聞き、それをほんとうに理解したとき以来、あなたがたの間でも見られるとおりの勢いをもって、世界中で、実を結び広がり続けています。福音はそのようにしてあなたがたに届いたのです。
(コロサイ1・6)

確かに偉大なのはこの敬虔の奥義です。「キリストは肉において現われ、霊において義と宣言され、御使いたちに見られ、諸国民の間に宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた。」(1テモテ3・16)

聖書は紀元1世紀において「全世界」伝道が行われていたことを証言している。

3.


わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。
事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。」
わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。
わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。
マルタはイエスに言った。「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。」
わたしを拒み、わたしの言うことを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話したことばが、終わりの日にその人をさばくのです。
(ヨハネ6・39-40, 44, 54、11・24、12・48)

「終わりの日」は「よみがえる」時であり、「さばき」の時である。

イエス・キリストに続いて人々が紀元1世紀によみがえった。

…罪過の中に死んでいたこの私たちを…キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ…てくださいました。(エペ2・4-6)

あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。

こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。(コロサイ2・12、3・1)

聖書では、エペソとコロサイの信徒たちはすでに「キリストとともによみがえらされた」のである。

「さばき」は紀元1世紀に起きた。

今がこの世のさばきです。今、この世を支配する者は追い出されるのです。(ヨハネ12・31)

さらに、

まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。
あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。…」(ルカ18・7-8)

紀元1世紀のクリスチャンについて「神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます」と言われている。

もし彼らのためにさばきが行われず、2000年間放置されているとすれば、聖書は偽りであり、イエスは偽預言者ということになる。

4.

終わりの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい。(2テモテ3・1)

「終わりの日」は「困難な時代」である。

そのときに人々は、自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者になり、
情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、粗暴な者、善を好まない者になり、
裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者、神よりも快楽を愛する者になり、
見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。こういう人々を避けなさい。(2テモテ3・2-5)

紀元1世紀は、このような時代であった。

…光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである。(ヨハネ3・19)

わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは白く塗った墓のようなものです。墓はその外側は美しく見えても、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいです。
そのように、おまえたちも外側は人に正しく見えても、内側は偽善と不法でいっぱいです。
わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは預言者の墓を建て、義人の記念碑を飾って、
『私たちが、父祖たちの時代に生きていたら、預言者たちの血を流すような仲間にはならなかっただろう』と言います。
こうして、預言者を殺した者たちの子孫だと、自分で証言しています。
おまえたちも父祖たちの罪の目盛りの不足分を満たしなさい。
おまえたち蛇ども、まむしのすえども。おまえたちは、ゲヘナの刑罰をどうしてのがれることができよう。
だから、わたしが預言者、知者、律法学者たちを遣わすと、おまえたちはそのうちのある者を殺し、十字架につけ、またある者を会堂でむち打ち、町から町へと迫害して行くのです。
それは、義人アベルの血からこのかた、神殿と祭壇との間で殺されたバラキヤの子ザカリヤの血に至るまで、地上で流されるすべての正しい血の報復がおまえたちの上に来るためです。
まことに、おまえたちに告げます。これらの報いはみな、この時代の上に来ます。
ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。(マタイ23・27-37)

6.

終わりの日に、主の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、国々の民はそこに流れて来る。(ミカ4・1)

「終わりの日」に、主の家の山が世界の中心になる。

主の家=神殿である。

神殿のある山=エルサレムのモリヤ山。

このことから、ディスペンセーショナリストは、「イスラエルが世界の中心となる」と結論するのだが、考えてほしい。

もしこの神殿を石造りの神殿と解釈するならば、では、イエスの御言葉をどう解釈するのだろうか。

イエスは彼らに答えて言われた。「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」
そこで、ユダヤ人たちは言った。「この神殿は建てるのに四十六年かかりました。あなたはそれを、三日で建てるのですか。」
しかし、イエスはご自分のからだの神殿のことを言われたのである。(ヨハネ2・19-21)

イエスはここで、「再建される神殿とはご自身の復活体のことだ」と言われたのである。

だから新約時代において神殿を石造りの神殿と解釈する義務はないし、また、そのように解釈してはならない。

石造りの神殿を建設することは、イエスの復活を無にすることになるからである。

また聖書では、クリスチャンの体も神殿であると述べている。

あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。(1コリント6・19)

それゆえ、「主の家の山」をエルサレムのモリヤ山と解釈する責任はないし、「国々の民はそこに流れて来る」も、イスラエルの地が世界の中心になると解釈する責任もない。

このミカの個所は、新約時代になると、キリスト及びクリスチャンのからだが神殿となり、世界の中心になると解釈すべきである。

7.

その後、イスラエル人は帰って来て、彼らの神、主と、彼らの王ダビデを尋ね求め、終わりの日に、おののきながら主とその恵みに来よう。
(ホセア3・5)

新約時代に神殿がイエス及びクリスチャンの体になったのであれば、その他も同様に解釈すべきである。

「イスラエル人の帰還」は、文字通りの「パレスチナという土地への帰還」と解釈すべきではなく、紀元1世紀に起きた「キリストへの信仰を通じての契約の民の回復」を意味するとしなければならない。

このホセアの個所と同様な内容の聖句に次がある。

その日、エッサイの根は、国々の民の旗として立ち、国々は彼を求め、彼のいこう所は栄光に輝く。
その日、主は再び御手を伸ばし、ご自分の民の残りを買い取られる。残っている者をアッシリヤ、エジプト、パテロス、クシュ、エラム、シヌアル、ハマテ、海の島々から買い取られる。
主は、国々のために旗を揚げ、イスラエルの散らされた者を取り集め、ユダの追い散らされた者を地の四隅から集められる。(イザヤ11・10-12)

これはいつ成就したのか。

エッサイの根とは、エッサイの子ダビデの子孫イエスのことである。

イエスは「国々の民の旗として立ち、国々は彼を求め、彼のいこう所は栄光に輝く」。

つまり、世界の王であり救い主である。

「イスラエルの散らされた者を取り集め、ユダの追い散らされた者を地の四隅から集められる」。

つまり、離散ユダヤ人を集める「ユダヤ人の王」である。

これは、初臨のイエスにおいて成就した。

イエスは次のように言われた。

わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。

イエスは自分がどのような死に方で死ぬかを示して、このことを言われたのである。(ヨハネ12・32-33)

イエスが十字架にかかると、すべての人が引き寄せられる。

つまり、十字架において、イエスは、世界の諸国民及び離散ユダヤ人の王・救い主になるというイザヤ11章の預言が成就したということである。

エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。
その上に、主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。(イザヤ11・1-2)

これは、マタイ3章において成就した。

こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。(マタイ3・16)

「御霊が上に来られる」は「その上に、主の霊がとどまる」の成就である。

このように、「終わりの日」は、紀元1世紀における旧約時代の終焉と新約時代の到来と解釈すべきである。

 

 

2016年2月27日



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