この世界は永遠には続かない2


まず第一に、次のことを知っておきなさい。終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、
次のように言うでしょう。「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。父祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」
こう言い張る彼らは、次のことを見落としています。すなわち、天は古い昔からあり、地は神のことばによって水から出て、水によって成ったのであって、
当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。
しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。
しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。
主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。
しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。
このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。
そのようにして、神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません。その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。
しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。(2ペテロ3・3-13)

ここで「正義の住む新しい天と新しい地」は、紀元70年に始まった。

なぜならば、この箇所全体が紀元70年頃の再臨を扱っているからである。

まず第一に、次のことを知っておきなさい。終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、
次のように言うでしょう。「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。父祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」

ペテロは、イエスの昇天を目撃し、現在、イエスが天の神の右の座に座ってることを知っていた。

このペテロに対して「来臨の約束はどこにあるのか」と揶揄する人は、紀元70年頃のイエスの来臨を問題にしているのは明らかである。

つまり、これらの冒涜者たちは、福音書にある「ここに立っている人の中には、人の子が御国とともにやってくるのを見るまでは死なない人がいる」という約束に関して「成就してないじゃないか」とイチャモンをつけている。

ヨハネに対して「すぐに来る」と言われたイエスの来臨が「遅いじゃないか」と文句をつけている。

ペテロに対して文句を言うこれらの冒涜者たちの関心は「イエスと同時代に起きるはずの再臨」にあった。

「21世紀に日本に住むわれわれ」は無関係である。

それゆえ、ここで「正義の住む新しい天と新しい地」は、「21世紀に日本に住むわれわれ」にとって未来に始まる新天新地を指すのではなく、紀元1世紀に始まるそれである。

ペテロは、ここで「紀元1世紀に新天新地が始まる」と暗に宣言している。

新天新地を何か「永遠に続くもの」と考える人にとっては衝撃かもしれない。

しかし、聖書は「新天新地は紀元1世紀に始まるので、それは『朽ちる新天新地』である」と述べている。

なぜか。

われわれは、紀元1世紀に始まった新天新地に生きているが、この新天新地では、「物体は朽ちゆく」からである。

旧約世界と同様に、この新天新地においても、エントロピー増大の法則が働いている。

したがって、われわれは、新天新地には二種類あるとわかる。

すなわち、「朽ちる新天新地」と「朽ちない新天新地」。

図式にすると次のようになる。

第一の再臨(紀元70年頃)
(旧約世界への審判)

  ↓  (千年王国:朽ちる新天新地)

第二の再臨
(新約世界への審判)

  ↓  (朽ちない新天新地)

永遠に続く

では、「朽ちる新天新地」においては、すべてが朽ちるのか、というと、そうではない。

なぜならば、紀元1世紀以降、クリスチャンにおいて「死は滅んだ」からである。

クリスチャンと彼らに属するものは、滅びない。

どういう形でだろうか。

クリスチャンがこの肉体を離れるときに、瞬時に「御霊のからだ」が与えられ、昇天する。

御霊のからだは、朽ちない体である。

そして、クリスチャンが生前になした業は、すべて「永遠の報い」として残っている。

神が、われわれの業を記憶してくださり、報いを天に蓄えてくださっている。

それゆえ、クリスチャンは肉体の死と同時に、御霊のからだに変えられて、昇天し、そこで自分の報いを受ける。

今「朽ちる新天新地」が続いているが、クリスチャンだけは死から解放されている。

では、この世界は「朽ちる新天新地」としてこれからも永遠に続くのだろうか。

ノー。

なぜならば、

朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。(1コリント15・53)

ここでフルプレテリストの誤謬が明らかになる。

フルプレテリストは、この朽ち行く世界が永続する、と唱える。

違う。

「死ぬものは、必ず不死を着なければならない」のである。

世界は「永遠化」されなければならない。

イエスはもう一度、新約世界に対する審判を下すために来臨される。

紀元70年以降に起きたすべてのことについて裁きをつけて、再び世界を真っ平らにされる。

絶対的正義の神が「不正に対して裁きを付けずに、そのままにされることはない」からである。

キリストにある人々は、十字架の贖いを受けているから裁かれることはない。

しかし、キリストを信じない人々は、自分が犯したすべての罪について裁かれる。

そして、永遠の世界が到来する。

永遠の世界の状態は、文字通り永遠に続く。

つまり、救われた人々は永遠に救われ、救われない人々は永遠に救われない。

 

 

2021年6月15日



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