(1)
精神が不安定な人が増えている。
なぜならば、聖書の基本的な知識がないからだ。
霊の世界の知識も経験もないからだ。
自分を支える神学がない。
この世界は、霊の戦いの舞台である。
隙を作れば、すぐに悪霊が火矢を入れて、心の中を燃やしてしまう。
不安に陥るのはなぜか。
自分を信じているから。
聖書を信じ切っていないから。
自分を信じることは、20階に止まった、ロープの切れそうなエレベーターに乗るのと同じ。
われわれは状況が変わればすぐに影響を受ける弱い存在なので、ロープはすぐに切れる。
高いところにエレベーターを設定すると切れたときに、下に落ちて死ぬ。
しかし、神を信じ、聖書を信じるならば、最下階に止まったエレベーターに乗るようなものなので、それ以上、下に行けない。
安定している。
宇宙が創造される前に神しかおられなかった。
神の自己認識こそが、聖書の認識論の前提である。
それ以上、さかのぼることができない究極の土台とは、宇宙の創造前にあった知識である。
神はご自身について完全にご存じである。
神にとってご自身の中に陰に隠れている部分はない。
人間は、自分でも自分について知らない部分がある。
CTなどで体の内部がわかる。
経験を積むうちに自分の才能について知るようになる。
しかし、神はご自身を完全に知っておられる。
神の三位の互いにおける完全な知識こそが、究極のもっとも確実な絶対的に知識である。
これこそが、われわれの究極のよりどころである。
だから、それを疑うことはできない。
クリスチャンが聖書を疑うということは、20階のところにエレベーターを戻すことに等しい。
自分に神と聖書を裁く地位を与えた。
人生に試練が襲ってきて、そのロープが切れたとき、エレベーターもろともストーンと落ちる。
知識の土台を、「それ以上掘り下げることができない神の知識」に置くべきだ。
そして、聖書の言葉を究極の権威とすべきだ。
そうすれば、不安になってサタンの餌食になることはない。
私は不安になりそうなときに、「聖書は何と言っているか。ああ、そうかこう言っているな。じゃあ、これ以上迷うことをやめよう」とスパっと不安を切り捨てる。
志の堅固な者を、あなたは全き平安のうちに守られます。その人があなたに信頼しているからです。(イザヤ26・3)
(2)
3日前に、友人が心霊写真が撮れたというので見せてもらった。
その人の知人2人がジャズ・バーで話しているところを写した写真だが、2人の手前真ん中に顔くらいの大きさの手のようなものが浮いている。
手のひらを上に向けて開いているような形である。
拡大してみると、その手のようなものは全体に毛が生えており、指はまるで猫の足か尻尾のようである。
さらに、横にまだらの筋が入っているので横縞の蛇かタランチュラの足のようである。
親指だけが、やたらに長く光っているのだが、それはその手の親指ではなく、その手の下にある別の何かから伸びている。
手首の付け根のところには、洋服の裾のようなものが見え、その裾から手が出ているような形にも見える。
その人は、パソコンも持っていないし、Photoshopの操作もできない。
捏造でもなんでもない、正真正銘のデジカメ写真である。
私はこれを見て、悪霊の世界を見たような気持ちになった。
得体の知れないものがこの世に存在すると思った。
人間が想像するものは、それなりにまとまっていて、整理されている。
たとえば、水木しげるの妖怪なども、オバケといっても、人間が納得するような形をしている。だから、2度見、3度見することができる。
しかし、現実の悪霊は、われわれに2度と見たくないという思いにさせるもので、「異なる世界からのもの」「しゃれにならないもの」という印象を与える。
かつて、夜床について寝ようとすると、瞼にそういう「異形」が次から次へと現れたことがある。
(3)
さて、このような写真はすぐに捨てるべきだとか言う人がいる。お祓いが必要だとか。
こういう考えは、悪霊よりも自分が弱い立場にあるという認識から起きる。
われわれクリスチャンは、王なのである。
われわれにとって、特定の数字とか特定の石に不吉なもの、パワーがあるなどということはない。
われわれは、祭司であり、「間を取り持つ者」である。
被造物を神と和解させるために祭祀を行う者である。
われわれは御使いをも裁くべきものである。
御使いよりも高い地位にある。
その王であり、祭司である者がどうして、裁くべき対象のものに振り回されるのか?
悪霊がおどかしてきたら、一喝すればいい。
「イエス・キリストの名によって命令する。底知れぬところに行け。二度と出てくるな」と。
(4)
ポスト・ミレにならないとこういう信仰には達しない。
プレ・ミレのように「今の時代は、悪魔が世界を支配している」と考えると、心に隙ができる。
相手が弱いと見ると、とことんつけ込んでくる奴らである。
こちらが完全な信仰を持って、「紀元70年以降、イエス・キリストが世界の王であり、天地におけるあらゆる権威をもっている。そして教会はキリストの体である。だから、われわれに勝てる者はいない」と宣言することである。
そうすれば、つけ込まれることはない。
精神を安定させるには常に、隙を作らないことである。