賢い人は天国の預金額を気にする


そこで、わたしはあなたがたに言いますが、不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうしておけば、富がなくなったとき、彼らはあなたがたを、永遠の住まいに迎えるのです。
ですから、あなたがたが不正の富に忠実でなかったら、だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょう。(ルカ16・9, 11)

「不正の富」とは「この世の富」と言い換えられる。

なぜならば11節で「まことの富」と対比されているからである。

ですから、あなたがたが不正の富に忠実でなかったら、だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょう。

「不正の富」は「まことの富」ではない富。

真実ではない富。

幻影でしかない富。

虫がついたり、錆びたり、泥棒に盗まれたりする富。

自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。(マタイ6・20)

もしわれわれに富があるなら、それを神の国のために使うべきである。

神の国のために使ったときに、その富は「天にたくわえられ」て、「まことの富」となる。

神の国のために使わなければ、死んだら終わりである。

地上で名誉と富と栄光を得ても、それを神の国のために使わなければ、地上を去るときに置いていくことになる。

誰か知らない人の手に渡るかもしれない。

税金で取られて役人の裏金に使われるかもしれない。

神の国のために使わない富は、保存されていないデータのようなもの。

突然の停電でシャットダウンしたら消えてしまう。

私の知人の知人で6ヶ月かかった仕事をデータ損失でパーにした人がいる。

神の国のために使った富は、永遠に消えない保存データである。

それは、天に蓄えられており、神によって厳重に管理されている。

イエスは彼に言われた。「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」(マタイ19・21)

富める青年は、宝を持っていたが、天に積んでいなかった。

自分の懐に大切に保管していたからである。

イエスは彼に「持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい」と命令された。

地上的な見方では、貧しい人たちに与えることは損失である。

しかし、神の目から見ると利益である。

神はそれを価値のあることとみなしてくださる。

イエスは「そのうえで、わたしについて来なさい」と言われた。

すなわち、地上的な見方しかできなければ弟子になれない、ということである。

「貧しい人に与える?そんなことしたら無駄になる」と考えるような人は、弟子になれない。

青年は悲しい顔をして去っていった。

つまり、彼は、地上的な見方を捨てられなかった。

真のクリスチャンは、イエスの弟子である。

イエスの弟子は、天に宝を積むことに集中する。

地上で蓄えても意味がないと考えている。

地上的な見方しかできない人は、重要なデータを保存されていない状態で何ヶ月も持っているような人である。

常に疑心暗鬼にかられている。

自分のものを失わないか、いつも不安である。

イエスの弟子は、神の国のために使ったら「あ〜、やっとデータを保存できた」と安堵する。

財産を失わないか疑心暗鬼にかられ常に不安と隣り合わせの人生よりも、自分の富が確実な金庫に保管されていると安心する人生のほうがはるかにましである。

地上的な見方しかできない人は、死んだときに、データが真っさらになる。

必死に貯め込んだお金は、ご破算になる。

死とともに始まる「本当の人生」において、無一文で過ごす。

しかし、イエスの弟子は、そこにおいて蓄えを神から渡される。

劣化していない富である。

80兆年たっても終わらない人生。

長くて100年の短期間に、どれだけ天に宝を積むことができるだろうか。

賢い人は、天国の預金額を気にする。

愚かな人は、意識が地上にしか向かない。

 

 

2019年10月17日



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