われわれの前には膨大な仕事が残っている



また、知識と真理の具体的な形として律法を持っているため、盲人の案内人、やみの中にいる者の光、愚かな者の導き手、幼子の教師だと自任しているのなら、(ローマ2・19)

律法は「知識と真理の具体的な形」なのである。

神の真理が具体的な形となって記されたのが律法であるからには、クリスチャンは律法を捨てることは許されない。

ディスペンセーショナリズムが「律法は無効になった」と教えてから、クリスチャンは律法をまじめに研究しなくなった。

そのために「知識と真理」を奪われてきたと言ってよい。

神は「故意の殺人者を祭壇のところからでも引っ張っていって処刑せよ」と言われた。

しかし、人が、ほしいままに隣人を襲い、策略をめぐらして殺した場合、この者を、わたしの祭壇のところからでも連れ出して殺さなければならない。(出エジプト記21・14)

しかし、今日、ある牧師は「処刑とは人殺しであり、国に人を殺す権利はない」と言っている。

理由は「律法は旧約の話だから」である。

イエスは「律法を廃棄するために来たのではない」と明言されてではないか。

わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。(マタイ5・17)

パウロは「信仰は律法を確立する」と述べたではないか。

それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです。(ローマ3・31)

「旧約になったから律法は無視していい」とどこにも書いてない。

だから、われわれは、律法を「知識と真理の具体的な形」として尊重し、それを守るように努めるべきなのである。

神の知識と真理は、律法において「具体化」されている。

だから、神殿や幕屋の構造、祭儀の方法、動物犠牲の細部、刑法その他から「知識と真理」を読み取るべきである。

新約時代において変化したのは「祭司制度」である。

新約時代において、祭司はユダヤ人、とくにレビ族に限定されなくなった。

今日、メルキゼデクの大祭司となったキリストにあって、クリスチャンも祭司である。

イエスは私たちの先駆けとしてそこに入り、永遠にメルキゼデクの位に等しい大祭司となられました。(ヘブル6・20)

しかし、あなたがたは、・・・祭司・・・です。(1ペテロ2・9)

メルキゼデクは、まだイスラエル民族が誕生していない時代の祭司である。

そして、イエスはユダ族である。

つまり、祭司は「ユダヤ人」「レビ族」でなければならないという縛りが解けたということである。

祭司制度が変われば、律法も変わる。

祭司職が変われば、律法も必ず変わらなければなりませんが、(ヘブル7・12)

すなわち、祭司職に「民族的な縛り」がなくなったので律法にも「民族的な縛り」がなくなった。

律法は「超民族化」した。

それゆえ、新約時代において、われわれは律法を「超民族化された律法」として学び、行う必要がある。

表面的な守り方ではなく、本質を抽出し、それを各民族・各時代に適用しなければならない。

これまで律法がないがしろにされてきたので、われわれの前には膨大な仕事が残っている。

律法研究を通じて神の「知識と真理」を学び、伝え、実行するという仕事である。

2018年から、神がわれわれに力を与え、多くの有益な書物や、毀損されていない聖書翻訳を行わせてくださり、この仕事に向かってスタートを切らせてくださるよう祈る。

 

 

2018年1月2日



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