キリスト教を健全に維持するにはヴァン・ティルの弁証論に立つしかない2



第二に、彼ら[つまり、証拠主義者たち]の信じるところによれば、人間はある種の倫理基準を自らの性質から推論することができ、道徳的行動の普遍的な基準を前提とする人類学的プロジェクトを提案することができる。

最後に、証拠主義者たちは、不確かなニュートン主義的科学的方法論を通じて、知的及び人類学的なプロジェクトを進展させた。

ノルによれば、このプロジェクトは「福音主義者たちに以下のことを信じるように励ました。

すなわち『神学の最終的な成果とは、単純な事実から帰納法的な方法によって慎重に得られる真理の体系である。この体系は、空想の仮想的な逃避を避け、神と神の道の普遍かつ不変的なイメージを示す』と」。(同上)

科学は、データを集め、そこから普遍的な法則や事実を導きだそうとする試みである。

この帰納法的な知識の獲得法は、神学には適用されない。

なぜならば、神学とは「聖書は絶対の基準である」という前提から出発し、そこから知識を得ようとする営みだからである。

すなわち、神学は「演繹法による認識」に基づく。

たとえば、ダーウィンのいとこで統計学者であったフランシス・ゴルトンは、祈りに効果があるかどうかを科学的に調査した。

イギリスでもっとも祈られている人物は国王である。

「神よ、女王を救いたまえ」と祈られている。

国王の平均寿命を調べたところ、一般人となんら変わりがなかった。

それゆえ、祈られても長生きはしない、祈りに効果はないと結論した。

これは、神と神の言葉への挑戦である。

聖書に「祈りは聞かれる」と記されている以上、被造物であるわれわれは「そのとおり」と言う以外にはない。

神学の使命とは、聖書に何が書いてあるかを体系的に述べることである。

仮説を立て、実験し、データを集めて結論を出すようなものではない。

神学を帰納法的な知識と誤解するところから堕落が始まる。

「人間はある種の倫理基準を自らの性質から推論することができ」ると考えるならば、聖書はいらない。

人間は堕落しているので、自分に都合のよいような倫理を作り出す。

神の御言葉による指導なしに善悪を知ろうとする試みは、悪魔の誘惑に屈することである。

ヴァン・ティル以前の弁証学は、生まれながらの人間の知性と倫理観に依存する異教的なものであった。

ヴァン・ティルは、米国のプロテスタント主義において数百年の歴史を持つこの伝統を捨て、自らが「正しいカルヴァン主義認識論(つまり、知識に関する理論)の回復」であるとみなす教えを提供した。

オランダ系移民であったヴァン・ティルは、オランダ改革派の伝統の影響のもとにあった。

とくに、19世紀のオランダの神学者であり政治家であったアブラハム・カイパーの教えを採用した。

合衆国において、カイパーは、新カルヴァン主義の父として記憶されている。

新カルヴァン主義とは、神学的・社会的な運動であり、その信奉者たちは、カルヴァン主義を、啓蒙主義や現代神学の社会的・文化的・政治的な進展に抵抗することができる「包括的かつ首尾一貫したキリスト教の世界観」と考えていた。

ヴァン・ティルの伝記作家によれば、カイパーは、キリスト教の世界観と、フランス革命において人々に知られるようになった近現代の世界観との間に絶対的な分離がある、すなわち両者は互いに「アンチテーゼ」である、と主張した。

カイパーは、カルヴァン主義者たちに「社会問題へのクリスチャン的なアプローチと、ノンクリスチャンまたは『背神的な』思想に裏付けられたアプローチの間に」明確な線引きをせよと述べた。

カイパーによれば、クリスチャンだけが自覚的(self-conscious)でありえる。

事実、ノンクリスチャンは、自らの非キリスト教的な方法で首尾一貫して思考することはできない。

なぜならば、そのようにすれば、最終的には、すべてが徹底して無意味になってしまうからである。

それゆえ、ノンクリスチャンにとって、あらゆる意味や知識は、王なるイエスについての漠然とした理解からの「借り物」でしかない。(同上)

1.

仮に、ノンクリスチャンが言うように、この世界が偶然の産物であるならば、道徳的に生きることに意味はない。

神の言葉が示す普遍的な道徳が存在しないのであれば、陰に隠れて悪事を行ってもいいということになる。

「良心のとがめ」は「気のせい」である。

ノンクリスチャンは、自分の理屈で徹底して生活できない。

「偶然に成立した宇宙」を前提にして、徹底的に生活している人はいない。

なんらかの形で、キリスト教の神を前提として生き、考えている。

2.

宇宙が一人の神によって定められた同じ法則にしたがって動き、存在しているという前提がなければ、科学は成立しない。

「サッカーの神」とか「笑いの神」などとよく言われるが、分野や領域や時代によってそれぞれ異なる神がいるならば、どうして統一した法則を見つけ出すことに意味があるのだろうか。

科学がキリスト教文明のもとで発展したのは、「同じ法則が場所や時代に関係なく働く」という信仰があったからである。

 

 

2017年5月26日



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