第二の恵みを主張する人々の隠れた動機


1.

「信仰しただけではだめだ。○○の体験をしなければならない」

信仰後に第2の恵みを受ける必要があると唱える教えは、ことごとく反キリストである。

われわれにとって、イエス・キリストへの信仰による救いは「完全な恵み」であって、それ以上追加すべきものは何もない。

なぜならば、イエス・キリストは「信仰の完成者」だからである。


信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。・・・(ヘブル12・2)

イエス・キリストは、信仰を創始され、完成されたのである。つまり、イエス・キリストは信仰に関して「アルファであり、オメガである」。

信仰に関しては、イエス・キリストがすべてであり、彼お一人で完結している。

それ以上何も追加する必要はない。

マリアも不要。教皇も不要。

イエス・キリストを信じて、なおも聖霊を受けていない人などいない。

なぜならば、信仰者には「約束の聖霊の証印」が押されるからである。

この方にあってあなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことにより、約束の聖霊をもって証印を押されました。(エペ1・13)

「信仰による聖霊の証印だけではだめだ。御名による証印を受ける必要がある」というのも「第2の恵み」の異端である。

私はかねてから「御名による証印」を唱える川口常仁氏に対しては「それは聖書のどこにも記されていないし、イエス・キリスト以外の恵みの必要性の主張であるから異端である」と主張していた。

そして、彼がこの教えを唱える教会から除名されたこともあり、考えを変えたと思っていたが、間違っていた。

先日、ミレニアムの会員の方に対してその教えを再度主張したので、本日電話にて「絶縁」を宣言した。

読者の皆様には、このような「第2の恵み」の教えを唱える人々には、接触しないようにお勧めする。

2.

サタンのやり方は巧妙である。

イエス・キリストをそのまま否定すると反発を食らうので、「イエス・キリストへの信仰だけではだめだ」と追加を主張する。

ローマ・カトリックのマリア崇拝も同じようなものである。

「別の仲保者」としてマリアを立てることにより、イエス・キリストの御姿をかすませる目的がある。

「修養」とか「黙想」なども注意しなければならない。

行いの強調は、「イエス・キリストへの信仰のみによる救い」を弱める目的をもつ場合がある。

全部とは言わないが。

3.

クリスチャンになってから「聖霊のバプテスマを受けた人」と「受けていない人」で違いがあるなどという教えも間違っている。

たしかに私も聖霊のバプテスマらしきものを受けたことがある。

しかし、それがクリスチャンをさらに高い段階に至らしめる特別な恵みだとは考えない。

イエス・キリストを信じた人は、聖霊のバプテスマというものを受けたにしても、受けなかったにしても、等しく全員が「王なる祭司」であり、この世界と歴史の主人公である。

イエス・キリストの信仰以外のものを追加する心とは「自らへの権威づけ」である。

信仰を自分の利益のために利用する恐ろしい心である。

また、知性が腐ってしまって真理を失った人々、すなわち敬虔を利得の手段と考えている人たちの間には、絶え間のない紛争が生じるのです。(1テモテ6・5)

「敬虔を利得の手段と考え」てはならない。

つまり、宗教で金儲けをしてはならないのである。

教会や個人に権威を与えるために「イエス・キリストの信仰以外の恵み」を作りだし、それによって金儲けを企む人々に欺されないようにしよう。

 

 

2017年12月25日



ツイート

 

 ホーム

 



robcorp@millnm.net