異なった教えによって迷わされてはならない


ローマ7〜8章などから、聖書が教えるクリスチャンの姿は以下のとおり。


1.人間の生まれながらの性質(肉/からだ)は、クリスチャンになっても変わず、死をもたらす。

肉の思いは死である(ローマ8・6)

2.肉に従って生活することは、神の呪いを招き、負のフィードバックが伴う。つまり、精神や肉体の病気や死、仕事の失敗、私生活での不調など。

私たちが肉にあったときは、律法による数々の罪の欲情が私たちのからだの中に働いていて、死のために実を結びました。(ローマ7・5)

ちなみに、ここで「肉にあったとき」というのは「生まれながらの人間の堕落した性質に縛られていたとき」という意味。クリスチャンになると、御霊によって自由が与えられ肉に従う必要はなくなる。

主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。(2コリント3・17)

もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。
ですから、兄弟たち。私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません。(ローマ8・11-12)

3.御霊は死をもたらす肉の働きを抑制し、それゆえに、呪われることを防いでくださる。また、御霊は、神の御心を行う力を与えてくださる。

もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。(ローマ8・13)

しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。(ガラテヤ5・22-23)

4.新生によって変わるのは法的(契約的)な立場だけであり、実際的な状態には変化はない。つまり、クリスチャンは、法的(契約的)には、義人であり、神の子であるが、肉において依然として罪人である。

私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です。(ローマ7・14)

私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。(ローマ7・24)

5.自分の固有の性質が邪悪である以上、クリスチャンは自分を誇ることができない。功績と栄光はもっぱら神に帰すべきである。

誇る者は、主を誇りなさい。(2コリント10・17)

6.クリスチャンは、神に対して「私はみじめな罪人です」と告白すべきである。

「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。
パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。
私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』
ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』
あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」(ルカ18・10-14)

7.クリスチャンは、人やサタンに対して「私は罪を赦され、義人となり、王となった」と宣言すべきである。

しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。(1ペテロ2・9)

8.クリスチャンは地上にある間、死のからだを持ち続けるので、自分の罪と戦わねばならない。

9.クリスチャンが罪から真に解放され、「実際的な」復活と「実際的な」義人になるのは、血肉のからだを脱ぎ捨て、御霊のからだを与えられるときである。

死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、
卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、
血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。

兄弟たちよ。私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。
聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな、眠ることになるのではなく変えられるのです。
終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。
朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。(1コリント15・42-44、50-53)


「すでにクリスチャンは『実際的に』復活し、無罪となり、義人となった」というような、反聖書的な教えをごり押しする人は、偶像礼拝者である。

さまざまの異なった教えによって迷わされてはなりません。(ヘブル13・9)

 

 

2019年12月20日



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