紀元70年以前に完結した話をそれ以降の歴史に適用してはならない4


予告編[tomi注:紀元70年以前]の復活については、よく納得できました。本編[tomi注:紀元70年]の復活については、コリント書やテサロニケ書に書かれている騒々しいイメージと比べると、プレテリズムの復活はひっそりとあまり気付かれないうちに起こったようで、「プレミレはシークレット・ラプチャー」「プレテリズムはシークレット再臨」と、タイミングと中身は全然違いますが、シークレットな点が共通しているようです。 新約時代の多くのチャンは、死ぬときに「復活の時を待つ」という思いで死んだと思いますが、実際に死んでみると、ただちに復活のからだが与えられて、プレテリズム以外の人たちはびっくりしているわけですね。 法的な復活は1回限りの出来事で、それまでに死んでいたクリスチャンにはお待ちかねの目に見えるかたちでの復活が実現した。AC70年以降に死ぬクリスチャンは、死ぬときに目に見えるかたちでの復活を順次個別に体験する。復活はなかなか複雑な構造を持っているわけですね。

シークレットであるかどうかはわかりません。なぜならば、当時どのようなことが起きたかは、記録に残っていないからです。

記録に残っていないということは、そのようなことがなかったのではないか、と考えることは聖書信仰の立場はできない。

なぜならば、「聖書は聖書によって解釈すべき」だからです。

よく「昇天されるのと同じ姿で再臨されるとあるが、記録に残っていないではないか」という批判がありますが、記録に残っているかどうかはわれわれにとってどうでもよいことです。記録は補強証拠にしかなりません。

しかし、これは「補強証拠を利用すべきではない」ということを意味しません。ヨセフォスを利用することは有益です。しかし、ヨセフォスの記録にないから「なかった」とは言えないということです。

ヴァン・ティルの前提主義は、「クリスチャンにとって聖書が出発点である」ということを意味しています。

出発点であるということは、それ以外は価値がないとか、利用してはならないという意味ではありません。

科学的・歴史学的・考古学的な知識を利用することができれば利用すべきです。

ただ、聖書と矛盾するような知識は切り捨てる。

つまり、聖書を「絶対に改変できないタブー」と見れなければ、聖書信仰のクリスチャンとは言えない。

実際に死んでみると、ただちに復活のからだが与えられて、プレテリズム以外の人たちはびっくりしているわけですね

プレテリズムの人でもほとんどがびっくりするでしょう。というのも、次の箇所を正しく読んでいるかどうか不明だからです。

「すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。
しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。
それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。
キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。
最後の敵である死も滅ぼされます。
『彼は万物をその足の下に従わせた』からです。ところで、万物が従わせられた、と言うとき、万物を従わせたその方がそれに含められていないことは明らかです。
しかし、万物が御子に従うとき、御子自身も、ご自分に万物を従わせた方に従われます。これは、神が、すべてにおいてすべてとなられるためです。」(1コリント15・22-28)

キリストの再臨のとき、何が起きるか。

1.クリスチャンは復活する
2.終わりが来る
3.キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになる。
4.死も滅ぼされる。
5.神が、すべてにおいてすべてとなられる。

で、キリストの再臨が紀元70年に起きたとすると、これらがすべてそのときに起きたことになります。

プレテリストを含め、ほとんどすべてのクリスチャンがこれらを未来に起きることと認識していると思います。

しかし、実は、すでにクリスチャンが死なない時代に入ったのだとパウロはここで主張している。

クリスチャンは不死になり、旧世界は終わり、あらゆる権威は滅ぼされており、死もクリスチャンにとって滅んでおり、イエス・キリストは御国を父なる神にお渡しになり、父なる神が「すでに」すべてにおいてすべてとなられている。

世界のキリスト教は、イメージとして「新約時代は、戦争中だ」と認識してきましたが、聖書は「新約時代は、戦後だ」と言っている。

紀元70年以降、サタンが滅び、勝利が確定済みで、父なる神がニュー・ワールド・オーダーをすでに築いておられる時代になっていると。

しかし、キリスト教は「神の軍勢とサタンの軍勢は丁々発止の戦闘を繰り広げている」と認識してきた。

誰もエペソ2・6の「(神は私たちを)キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました」に触れない。

教会が、どうして「戦後」の認識に至らなかったのか、というと、「法的変化と実際的変化の混同」があったからと思います。

聖書は「法的変化」と「実際的変化」を明確に区別しており、キリストの紀元70年の再臨において起きたことは、「法的変化」であって「実際的変化」ではないと述べている。

教会は、終戦を知らずに戦っているジャングルの部隊を見て「まだ戦争中だ」と考えてきた。

法的には、すでに戦争は終わっているのだが、実際的には戦争は続いている。その実際面だけを見て判断してきた。

「現状を見ると、1コリント15・22-28は未来の記述だと判断せざるをえない」と述べてきた。

(同じように混同しているフルプレテリストは逆に「すべてが過去だ」と言う。)

黙示録の獣(いわゆる反キリスト)を紀元70年以降にも見ようとする立場も、両者を混同している。

黙示録の獣はオールド・ワールド・オーダーに属する存在であって、そのオールド・ワールド・オーダーはすでに滅亡している。

サタンはすでに「法的には」捕虜となって凱旋の行列につながれて見世物になっている。

「神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。」(コロサイ2・15)

ニュー・ワールド・オーダーにおいて現れる「獣」は、あくまでも、戦後世界に現れたゲリラ残党でしかない。

彼らは獣そのものではなく、「獣らしき存在」「似非獣」である。本物の獣は、すでに火の池に投げ込まれている。

教会は、敗戦軍の残党でしかないこれらの「似非獣」「似非反キリスト」によって多大な損害を被ってきた。

おっしゃるように、ネロ(及びティトゥス)の害と比較すると何〇倍にもなる。

しかし、それは、ネロ(及びティトゥス)が獣ではないからではなく、オールド・ワールド・オーダーの戦場と比較してニュー・ワールド・オーダーの戦場が比較にならないくらい大きいからにほかならない。

オールド・ワールド・オーダーにおいては、弟子化の対象はイスラエル民族に限定されていました。しかし、ニュー・ワールド・オーダーにおいて、それは、「すべての民族」に拡大された。

ニュー・ワールド・オーダーの戦場は、オールド・ワールド・オーダーに比べて圧倒的に広い。

しかし、その戦場は「すでに勝敗が決定した後の戦場」である。

 

 

2020年9月21日



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