科学と教育の主導権を敵に明け渡してはならない


トマス・アキナスに関する文章を整理する。

トマス・アキナスの主張は次のとおりである。

1.生まれながらの理性は堕落しておらず、それゆえ、科学的探究は理性だけでもやっていけるから、クリスチャンにならなくてもよい。

2.ただし、霊的なこと、聖書に関すること、天に属することがらについては、聖書の導きが必要である。

3.生まれながらの理性によって得られた知識が、聖書と矛盾した場合、聖書を退けなければならない。

トマス・アキナスを評価する人々は、「彼は神中心主義によって信仰を救った」というのだが、いかが思われるだろうか。

これに対してヴァン・ティルは、「聖書は前提である」という。

1.生まれながらの理性は堕落しており、それゆえ、科学的探究は理性だけではやっていけないので、クリスチャンにならなければならない。

2.霊的なこと、聖書に関すること、天に属することがらについてだけではなく、科学的探究においても聖書の導きが必要である。

3.科学的知識が聖書と矛盾した場合、聖書を優先すべきである。

今の教会やミッションスクールは、トマス・アキナス的である。

聖書でいくら創造論が説かれていても、現代の科学的知識を優先して進化論を教える。

聖書でいくら「人間の精神的な問題は契約違反(罪)に起因する」と説かれていても、カウンセリングは現代心理学に基づいて「環境が原因である」と説く。

聖書でいくら「同性愛は罪であり、解決は悔い改め以外ではない」と説かれていても、教会は「同性愛を差別的に見てはならない」と説く。

どうしてこのような妥協が行われるようになったかというと、「理性は堕落していない」というトマス・アキナスなど偽預言者の「理性と信仰の棲み分け説」を唱えたからである。

「理性は、啓示の助けなしに独立して科学できる」と。

「科学は理性の仕事、信仰は聖書の仕事」と分けるべきだと。

理性は堕落している。

それは、反キリスト的である。


というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。(ローマ8・7)

生まれながらの人間の思考は、神に対して敵対的である。

どんなに客観性を重んじているように見えたとしても、ノンクリスチャンがやっている科学は反キリストであり、悪魔的である。

「そんなこと言っても、ノンクリスチャンが築き上げた学問的業績を無視できない」というだろうか。

そのとおり。

ノンクリスチャンだからといって、「すべて間違っている」というわけではない。

なぜならば、人間には堕落後も理性や良心が残されているからである。

しかし、その理性や良心は「破壊されている」。

アダムは、神殿として創造された。

至聖所には、契約の箱があり、その箱には十戒の二枚の板が入っていた。

神殿に聖霊が住まわれるように、アダムにも聖霊がお住まいになり、彼を教え導いておられた。

しかし、罪を犯したために、神殿が破壊された。

十戒の板も破壊された。

善悪の基準があいまいになった。

聖霊は、神殿が破壊され、汚れてしまったため、去る以外にはなくなった。

堕落後のアダムの姿とは、ローマ軍によって破壊され、廃墟と化した第2神殿のようなものである。

もはや御霊もいない。

さびれて朽ち果てている。

アダムから生まれてくるすべての人間は、「廃墟となった神殿」である。

基準が分からず右往左往する。聖霊の導きもいない。

クリスチャンになることによって、廃墟は建て直され、神殿が復活する。

十戒の二枚の板も元通りになる。

聖霊も戻ってこられる。

クリスチャンになることによって、理性が正しく導かれる。

古代ギリシアの哲人たちがどれほど優れていても、思考は大きく乱れ、誤謬に満ちていた。

奴隷制度、同性愛、戦争三昧、残虐な刑罰・・・

知恵を誇ったローマは、囚人を戦わせ見世物にした。

あれだけ「啓蒙」をとき、「光を示す」と自己宣伝する啓蒙主義者(イルミナティ)たちが、どのような政治を行ったか。

フランス革命、ロシア革命、中国革命・・・

血で血を洗う世界が現出した。

聖書を持たず、聖霊を持たない「破壊された神殿」の人々が、科学を導き、クリスチャンの子弟の教育を導くことがいかに愚かであるか。

「再建された神殿」であるわれわれが、科学を導き、教育を支配しなければならない。

トマス・アキナスを賛美することは、ノンクリスチャンに科学や教育をゆだねることに等しい。

クリスチャンがローマ・カトリックを受け入れることは、科学と教育の主導権を敵に明け渡すのも同然であるということに気づくべきだ。

 

 

2016年1月28日



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