神の奇跡をもたらす信仰


1.


イエスがカペナウムに入られると、ひとりの百人隊長がみもとに来て、懇願して、
言った。「主よ。私のしもべが中風で、家に寝ていて、ひどく苦しんでいます。」
イエスは彼に言われた。「行って、直してあげよう。」
しかし、百人隊長は答えて言った。「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばを下さい。そうすれば、私のしもべは直ります。
と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私自身の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ』と言えば、そのとおりにいたします。」
イエスは、これを聞いて驚かれ、ついて来た人たちにこう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。
あなたがたに言いますが、たくさんの人が東からも西からも来て、天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着きます。
しかし、御国の子らは外の暗やみに放り出され、そこで泣いて歯ぎしりするのです。」
それから、イエスは百人隊長に言われた。「さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」すると、ちょうどその時、そのしもべはいやされた。(マタイ8・5-13)

「しかし、百人隊長は答えて言った。『主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばを下さい。そうすれば、私のしもべは直ります。』 」

「ことばだけで、治る」

これが信仰である。

「イエスが御言葉を発するだけで、不可能も可能になる」という信仰こそが神に評価される。

「手を置いてくださらないと治らないのではないか」「この薬を使わないと無理だ」「手術しないと…」というレベルの信仰ではだめだ。

もちろん、だからといって医学や医者による治療が不要だというわけではない。

医療を否定する箇所は聖書にはない。

神は医者を通じてわれわれの病を治されることがある。

人間が神の代理統治者として召されている以上、人間の労働を通じて世界が変わることは神の御心である。

われわれが金銭にこまっているときに、神が突然目の前に金塊を創造されることもありえる。

しかし、通常は、われわれの経済活動を通じて金銭は与えられる。

奇跡だけが貴くて、労働が卑しいという考えは、聖書にはない。

だから、医療や労働を不信仰のしるしと考えてはならない。

だが、われわれは、神の超自然的な力を信じるべきである。

神には不可能はないと心から信じなければ、われわれは神を神として礼拝していない。

人間世界は複雑である。

しかし、神の世界は単純である。

何か事業をするときに、人間は、計画をたてて、資金を集め、資材を用意し、人材を集める必要がある。

しかし、神は、お言葉一つで、すべてを実現される。

ぶどう酒は、ぶどうを育て、樽におさめ、発酵させて、時間をかけて作られるが、イエスは、一瞬で水をぶどう酒に変えられた。

それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、そこにイエスの母がいた。
イエスも、また弟子たちも、その婚礼に招かれた。
ぶどう酒がなくなったとき、母がイエスに向かって「ぶどう酒がありません」と言った。
すると、イエスは母に言われた。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」
母は手伝いの人たちに言った。「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」
さて、そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、それぞれ八十リットルから百二十リットル入りの石の水がめが六つ置いてあった。
イエスは彼らに言われた。「水がめに水を満たしなさい。」彼らは水がめを縁までいっぱいにした。
イエスは彼らに言われた。「さあ、今くみなさい。そして宴会の世話役のところに持って行きなさい。」彼らは持って行った。
宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた。それがどこから来たのか、知らなかったので、――しかし、水をくんだ手伝いの者たちは知っていた――彼は、花婿を呼んで、
言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。」(ヨハネ2・1-10)

神は御言葉だけで世界を創造された。

神は人間とはまったく異なる御方なのである。

この神の超越性、全能性を信じるのが、本当の信仰である。

もし神を人間と同じレベルの「条件がないとできない」存在として考えているならば、われわれは、偶像礼拝者である。

本当にわれわれが神を主権者として礼拝するのであれば「神はなんでも無条件でできる」と信じなければならない。

神を神とする、ということは「状況がどうであれ、条件がどうであれ、神に不可能なことはない」と固く信じて疑わないことである。

疑う人は「神を審査する者」であり、自らが神となっている。

真の礼拝者とは「神が言われたのですから、文句は一切言いません」と決意し、動かない人である。

神が「できる」と言われたら、「そうです。神はおできになります」と即答できなければならない。

神が「エリコの城壁は、周囲を7回回っただけで崩壊した」と言われたら「そのとおりです。エリコの城壁は、周囲を7回回っただけで崩壊しました」と信じなければならない。

神が「六日で世界を創造された」と言われたら「そのとおりです。世界は六日で創造されました」と信じなければならない。

自分の中から一切の疑いを排除する決意がない人は、偶像礼拝者であり、己を神とする傲慢な人間である。

そのような人は、毎日曜日礼拝に出席しても、安息は得られない。

それゆえ、彼らが安息に入れなかったのは、不信仰のためであったことがわかります。(ヘブル3・19)

疑う人は、主から何も得られない。

ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。
そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。
そういうのは、二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いた人です。(ヤコブ1・6-8)

疑う人は、右往左往する。

そのような人は陸ではなく、海である。

風が吹くと、揺れ動く。

つまり環境に左右される。

人の評価や評判、周囲の状況によって、不安になったり、嘆いたり、怒ったりする。

2.

信仰とは、努力と訓練によって身に着けるものである。

自然のままで信仰が身につくはずがない。

われわれの自然の本性は、不信仰である。

アダムにおいて堕落しているので、不信仰を身に着けて生まれてくる。

人それぞれに弱い領域がある。たとえば、ある人は健康面で不安に陥りやすい。

その不信仰になりやすい領域を一つ一つ努力してつぶしていくことである。

私の家系は小心者が多いので、私も遺伝的に人一倍ビビリ性である。

人前で話すときにあがりやすい。

しかし、神は、ご自身の栄光のために、人一倍ビビリ性の人を選ばれる。

また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。(1コリント1・28)

最初から大胆な人を選んでも、神の栄光は現れにくい。

だから、神はあえて、小心者を選ばれる。

その小心者が、神の訓練と努力を通じて、信仰の強い人に変えられるならば、人々は神をほめたたえるようになる。

クリスチャンになる前の状態となった後の状態のギャップが大きければ大きいほど栄光が現れる。

だからパウロは自分の弱さを誇ると言ったのだ。

しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。(2コリント12・9)

神の力は、人間の弱さのうちに完全に現われる。

だから、われわれの欠点は、神にとって、栄光を表す好機なのである。

3.

神は、私を数々の逆境に置くことによって、私の自信をことごとく打ち砕かれた。

それは、信仰によってしっかりと立つためだとかんがえている。

人間の力がある人は、信仰によって立てない。

神は、人を用いられる前に、われわれの中身をすべてくりぬかれる。

内臓も骨もすべて取り除き、皮一枚にされる。

中身がつまっている人、つまり、人間的な自信がある人は、自分の野心やら名誉欲やらで、利用しにくいのである。

徹底的にぺちゃんこにされないと、神の奇跡をもたらす信仰は生まれない。

 

 

2017年6月21日



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