日本に欧米流のキリスト教が入りにくい理由


日本に欧米流のキリスト教が入りにくいのは、日本が欧米よりも古くからキリスト教を信じており、キリスト教の本家本元だからですよ。

物部氏の中心氏族である海部氏の海部氏勘注系図(日本最古の系図で国宝)によると、物部神道の神は唯一神であり、それは、秦氏の氏神ウカノミタマと同一。ウカノミタマは、広隆寺(昔景教の寺院だった)の神であり、それゆえ、景教の神でした。景教はネストリウス派のキリスト教だから、物部氏の神=秦氏の神=キリスト教の神ということになります。

日本は、紀元前3世紀の時点ですでに(旧約聖書の)キリスト教であり、紀元3世紀にやってきた秦氏が新約聖書のキリスト教であり、しかも、同じ璽を見せ合って、互いに同族であると確認し、そこで「旧新約聖書のキリスト教」として出発している。

罪・穢れを祓うことを中心とする神道は、明らかに贖罪信仰であって、行為義認(行為によって救われる)の宗教ではない。

神社本庁調査部長岡田米夫氏は、『大祓詞の解釈と信仰』(神社新報社発行昭和37年7月1日初版発行、平成13年2月1日22版発行)において次のように言われた。


(天照大神の)この神隠れは、国津神スサノオノミコトの罪を、天照大神が徹頭徹尾自らあがなわれ、身を隠されたことを意味する。天照大神はスサノオノミコトの罪を責められず、その改悛(かいしゅん)を最後まで期待されるとともに、常に「むつまじき心もちて相許したもう」という大きな自愛と包容力とをもって、その罪を許し、あがなわれたと書紀に見えている。

この神隠れした大神の再出現を祈るのが、天の岩戸の祭りであって、その祈りの果てに、天照大神は再び復活され、世にいう天岩戸開きとなる。それ以後、天照大神は永遠に生き神として、輝かしい御光を私共の上に投げかけておられるのである。

天照大神は又スサノオノミコトの罪をあがなうために、一度は神隠れされるが、再び復活されて、人々に「温かい手をさしのべられ、人々の罪を許す神」として今に至って、私共の上に輝きわたられているというのが、民族古典の示すところである。

・・・

この天照大神のみ心を継がれることが、その御子孫たる歴代の天皇の大きな使命であったとしてよい。明治天皇が「罪あらば我を咎めよ天津神民は我が身の生みし子なれば」と歌われ、今上陛下が今回の終戦に際し、マッカーサーに対して「我が身はどうなってもかまわぬ。国民を救ってほしい。」と仰せられたという。

この国民の不幸を御自身の責任と感じ、国民の不幸を身をもってあがなわれようとの大み心こそ、天照大神が国津神(国民)の罪を、死をもってあがなわれた、尊い救いの再現ではなかったろうか。祓いはこのようにして、大きな自愛をもって、新しい人生を創造し、人々の罪を進んであがなう、救いと悲願とがこめられているのである。

神道の実体は、キリスト教です。

 

 

2017年3月3日



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