携挙後のクリスチャンに関する説 I.地上在留説 「再臨前のクリスチャンは、再臨があった紀元70年においても地上におり、各自の肉体的な死までこの世界に留まり続けた」と信じるプレテリストのグループの説 A.集団説 再臨は、背神的なユダヤ教に対する裁きとエルサレム及び神殿の破壊を指す。 携挙は、「モーセの体(旧約の民)」が、背神的なユダヤ教という「灰の中からよみがえり、イエス・キリストの教会の完全な集合体に入ること」を意味する。 「雲の中に挙げられる」という表現は、「雪辱の日に、聖徒が栄光の中に高め挙げられた状態を表す比喩である」。 この見解は、復活の教理が個々人の肉体の復活と大きく関わっている事実を否定する。 <反論> 歴史的かつ逐語的な解釈を必要とする出来事を霊的に解釈するというおかしな解釈法を採用している。この解釈法では、紀元1世紀のクリスチャンたちがネロ帝の迫害からどのように解放されたのか明らかにならない。 再臨前のクリスチャンたちは、可触的かつ確実な結果を何も得られず、それまでと同じように生活し、死の時まで、携挙の箇所に約束された救いを依然として求め続けることになった。 この見解はあまりにも難解過ぎて、たとえそれが正しいとしても、聖書の直接の読者は期待どおりには解釈できなかったと思われる。 B.天国現在説 再臨が紀元70年頃に起きたときに、クリスチャンたちは地上に留まっており、約束の祝福を霊的にすべて受けた。 この地上が天国であるという経験こそが、神が御民に約束されたすべての約束の最終的な成就である。 この説を取る今日のプレテリストは「われわれは今すでに天にいるのだ」と述べ、それを他のクリスチャンに信じさせようとする。 肉体を持ち、死が未来に待ち構えているというのに。 <反論> 歴史的かつ逐語的な解釈しなければならない出来事を、霊的に解釈するというおかしな解釈法を採用している。 クリスチャンの希望は、当初から、神とともに天に住み、天国のために作られた栄光の霊的からだを持ち、神の完全かつ栄光に包まれた御姿を目にすることにあった。 実際、新約聖書では、クリスチャンは天国の前味としての聖霊を体験していると述べられている。聖霊は、クリスチャンの相続の保証として与えられた担保である。ほとんどのプレテリストは、この世において、罪と苦しみと涙と流血と苦悩とトラブルのただ中におり、現在天にいるとは考えられない。 神がおられる天国に入るという真の希望をクリスチャンから奪っている。 C.契約的変化説 一番支持者の多い説である。 紀元70年頃にイエスが再臨されたときに、パウロが1コリント15・51-52において述べた「変化」は、滅ぶべきものから不滅の者への変化、死ぬべきものから死なないものへの変化である。 それは、死んだ者も生きている者も、すべてのクリスチャンが集められることをを意味する。 再臨は、生きているクリスチャンが肉体を離れるときに、不死の存在によみがえることを可能にする出来事であった。 紀元70年の再臨以前に生きていたクリスチャンたちは、文字通り携挙されたわけではなく、地上に留まり、各自、自らの肉体の死を待っていた。肉体が死ぬときに、彼らは朽ちることのない、栄光の霊的なからだを受け、黄泉から解放された旧約のクリスチャンの群れに加えられると説く。 1テサロニケ4・15−17を霊的体験として解釈する。 「私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」(1テサロニケ4・15-17) <反論> 「引き上げ」るという言葉は、使徒8・39-40のように、文字通りの物理的引き上げを意味し、霊的な出来事であったと解釈することは不可能である。 死別したクリスチャンと生きているクリスチャンがいっしょに昇天すると聖書は教えている(ヘブル11・40)。 しかし、この説では、生きているクリスチャンは、それまでと同様に各自の肉体的な死を味わい、苦しみや迫害、涙、罪からの解放は成就しなかったことになる。 以上が、「地上在留」説の代表例である。 これらの説によれば、当時生きていたノンクリスチャンの隣人たちは、いかなる超自然的な出来事も目撃せず、その後も、クリスチャンと同じように接し続けたということになる。しかし、「クリスチャンの救いの完成」と呼べるような偉大なことは、実際に起きたはずである。 II.逐語的理解説