救世軍山谷大尉の再建主義論に反論する14

 


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>しかし、山谷氏は、「女の頭は『男の栄光』を天使に対して現し
>ます」と述べ、頭をあらわにすることによって「女は、『男の栄
>光を現す』ことにな」る、と発言された時点で、すでに性による
>区別、「男女の権威の差」を認めており、それゆえ、超性別的経
>綸を否定しておられる。

経綸(英語で言えばディスペンセーションあるいはエコノミー)は、前の経綸を踏まえて、現在の経綸が成り立つという構造を持っています。

律法が支配する時代という「前経綸」は、キリストによって終わらされましたが、それによって律法が消滅してしまうわけではなく、天地が消え去るまでは、律法の一点一画も廃れることはないのです。
しかし、クリスチャンはもはや律法によって支配されることはありません。なぜなら、クリスチャンは、律法に対して死んだからです。

これと同様にして、超民族的経綸が導入された時点で、ユダヤ人もギリシャ人も共に等しく神に近づくことが可能になったわけですが、それによってユダヤ人が消滅してしまうわけではなく、ユダヤ人の選民性が取り消しにされることもないのです。

また、同様にして、超性別的経綸が導入された時点で、男も女も共に、キリストのからだなる教会において「神の器」となることが可能になったわけですが、それによって、男女の性差が消滅してしまうわけではないのです。

旧経綸である律法の支配の時代は、パウロによれば、仲介者である天使の手を経て導入されました。律法の厳格な運用については、天使がそれを監視する役を担っていると考えられます。

現経綸においては、「キリストにあっては、男も女もない」ゆえに、男も女も、同様にして、キリストのからだにあって言葉の務めを果たすことが出来ます。
しかし、男と女が教会において、まったく同じようにふるまった場合には、「性差が依然として存続している」ゆえに、監視者である天使が混乱してしまうのです。
なぜなら、女が教会において語ると、男の栄光が現されてしまうからです。

これは、旧経綸の監視者である天使が、依然として存続している人間の性差のゆえに、新経綸における人間の新しい行動様式によって、混乱を来たす可能性がある、ということです。

ですから、パウロは、天使に対する配慮として、「女はかぶり物をかぶり、それで、男の栄光を隠しなさい。その上で、女は教会で祈ったり語ったりしなさい」と言ったわけです。

しかし、パウロの個人的な確信においては、「女の髪は、かぶり物として神から授けられたものである」ということであり、新経綸を完全に実行するのであれば、「女はかぶり物をかぶらずに、祈ったり語ったりしてもよい」ということなのです。

ところが、当時の初代教会には、そこまで新経綸を完全に実行している教会が、まだ存在していませんでした。神のディスペンセーションは、新しい時代にすでに突入していたにもかかわらず、地上における神の教会は、まだその恩恵を十全に味わってはいなかったわけです。

これは、旧経綸から新経綸へ移行する時期において、人間の側が古いマインドセットから脱しきれておれず、新経綸に対応しきれていないという現象です。

そこで、パウロは、教会の現状を鑑み、妥協して、「女がベールをかぶるのは、現状では、そうするしかないことだ」としたのです。

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非常に難解です。

この難解さは、聖書を素直に受け取らずに、自分のパラダイムに合わせて解釈しようとしているからであると思われます。
「天使が困惑する」とか、「パウロの個人的な確信においては」とか、「パウロは、教会の現状を鑑み、妥協し」て述べたなど、聖書のどこにも記されていません。

もっと素直に、「パウロは男女の権威に差があると考えていた」と解釈すれば、すんなり理解できます。

(1)
すでに述べたように、聖書は、男女差別を主張しておらず、また、パウロも同じです。

神が男女に権威の差を設けられたのは、社会機能のためです。

これは、人間社会が、三位一体の神のレプリカであるからです。

三位の神「父、子、御霊」は、互いに対して平等ですが、社会機能のために、序列があります。子と聖霊は父に従います。

人間の命は、すべて平等の価値をもっています。しかし、社会的に権威の差がなければ、社会は機能しません。それゆえ、どの集団においても、命令する者と、命令される者とがいます。

神は男性と女性を創造された時に、男―女という順序を設けられました。

これは、男が女よりも価値がある、ということではありません。

男は男として召され、女は女として召され、その召しに相応しい能力を与えられているということです。

これは旧約時代だけであって、新約時代には廃棄され、「もはや男も女もない」時代になったということを示唆する個所は聖書にありません。もし、ガラテヤ3:28が、男女の序列撤廃を意味しているならば、文脈に合致していなければなりませんが、すでに述べたように、この個所は、「誰でも『信仰』によって救われるのであって、男女の差はない」という意味で言われているのです。

「超性別的経綸」がはじまったというならば、他の個所においても、聖書は多くの個所において強調するはずです。事実、「超民族的経綸」については、無数の個所において主張されています。

男性は女性よりも大きな権威が与えられていますが、同時に責任も大きいのです。だから、「差別」ではありません。もし、差別というならば、現在の日本の社会において、首相や大臣がいて、一般市民がいる、というのは、差別なのでしょうか?
会社で社長がいて、社員がいるのは、差別なのでしょうか?


(2)
旧約聖書において「被り物」は、(1)栄光と(2)保護を現します。

http://www.millnm.net/qanda/g7A3DZK9.htm

パウロは、旧約聖書の教えにのっとって、女性は、男性の栄光と、男性による庇護を長髪(=自然の被り物)によって現すべきだと述べているのです。

女性が教会において教えることを禁じられたのは、旧約聖書において定められた男女の秩序が有効であることを示しています。

 

 

2004年1月7日

 

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