太平洋戦争開戦通告遅延の真の理由

 


文芸春秋(2003年12月号)に斎藤充功氏が『真珠湾「騙し討ち」の新事実』という題の文章を寄稿しておられる。

日本が宣戦布告前にパールハーバーを襲った舞台裏には、ワシントンの日本大使館の不手際があったことは広く知られているが、その裏に隠された事実があったという。

1941年12月7日午後1時25分(ワシントン時間)に、南雲忠一中将率いる日本海軍空母起動部隊は、ハワイ真珠湾に停泊中だった米国の主力戦艦を攻撃した。

しかし、ワシントンにいた駐米大使の野村吉三郎がハル国務長官に最後通牒となる「通告文」を手渡したのは、7日午後2時20分(ワシントン時間)のことで、55分も経過した後だった。

このため、日本は、アメリカに「騙し討ち」と言わせる隙を与えてしまい、その結果、必ずしも一つにまとまっていたわけではなかった米国民を「リメンバー・パールハーバー」の掛け声の下、一致団結させてしまった。

なぜ野村大使による通告文の手渡しが遅れたかといえば、従来の説では「大使館員の清書が手間取ったため」であるが、実は、別の理由があったという。

諜報員として米国に派遣され、12月4日に急性肺炎により死去した陸軍主計大佐・新庄健吉(享年45歳・クリスチャン)の葬儀がワシントンDC市内のバプテスト教会で執り行われ、野村・来栖両大使がそれに出席したが、牧師のメッセージが予想をはるかに越えて長時間に渡り、中座できなかったためだった。

当時「条約」担当であり、葬儀に同席した松平康東一等書記官(*)の証言:



「…(葬儀は)短時間の予定でしたが、司式するアメリカ人の牧師が、新庄大佐の高潔な人格を賛美して、長々と告別の辞を述べるので、気が気でならず、中止してもらいたい、と思うものの、それも出来ず、気があせるばかりでした。というのは、その日の午後一時には『国交断絶のやむなきに至った』旨を野村大使に同行して、ハル国務長官に最後通告に行く予定になっていたからですが、行くにもいけない。それで、時刻を遅らせて面会する以外にはありません。アメリカ人の牧師は、新庄大佐が自作された美しい英詩を、次々に順次に朗読し、どんなに年齢と共に精神的な成長をなさったかを、ノートを取り出して読みながら述べて、口を極めて遺徳を頌めたたえるのでした。

その時『ハワイの真珠湾を日本が攻撃中』の無電が入って来ました。でも、あまりにも美しく感動的な説教が続くのが印象的でして、聴き入る上官たちに『葬儀の中止』を耳打ちするのですが、黙って終わるのを待っておられました。私は和戦交渉の担当官として、あんなに気をもんだことはありませんでした。

葬儀が終わるや否や、野村、来栖の両大使は国務省にむけ、フルスピードで自動車を走らせ、ハル国務長官に面会して、日本の最後通告を伝えたのでしたが、ハルが『無通告の奇襲攻撃』と激怒したのも当然ですが、実は事後通告となった舞台裏の事情は、アメリカ人牧師が長々と悼辞を述べたからなのでした。…」(出典『新庄健吉伝』著者稲垣鶴一郎が「原始福音」一七七号から転載したものを引用)(146ページ)


さらに、戦後十年を経た昭和30年秋、自民党参議院議員となっていた野村吉三郎から新庄健吉夫人の範子のもとに突然届いた一通の書簡には、「新庄の葬式の間に開戦となった」と記されていた。



「…開戦当時の事は尚昨日の如く頭に残りおり故大佐の葬式には米国の陸軍将校も多数参列、式の間に開戦となった次第にて当時のことは夢の如くに有之候」(書簡は写真とともに『新庄健吉 追憶記』に紹介されている)(150-151ページ)


大本営政府連絡会議の12月6日の会議において、最後通牒の「手交の時間」がワシントン時間7日午後1時と決定され、伝えられていた。

それにもかかわらず、なぜ野村大使の手渡しが大幅に遅れることとなったかは、実は、この葬儀での牧師のメッセージの遅延にあったのだ。

45歳で突然亡くなった新庄大佐の本当の死因を調べる必要があるだろう。そして、なぜ4日に死亡したのに、葬式が開戦まで秒読み段階に入った非常時の7日に行われたのか、また、なぜ野村・来栖両大使がその葬儀の日程を受け入れ、それに参加したのか。


(*)この証言は、クリスチャンであった松平が、「神の幕屋」の手島郁郎と機関紙『キリスト聖書文化 原始福音』(第177号)誌上で対談した中で述べられたものである。「幕屋」はこの号を永久部外秘扱いにし、一切の閲覧を認めていないという(145ページ)。

 

新庄健吉と国際金融資本

 

2003年11月12日

 

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