浦島太郎はイエス・キリストを象徴しているのか?


以前から、浦島太郎の物語がイエス・キリストを象徴していると感じてきた。

この物語は、亀で始まり鶴で終わる。その間に海中がある。

籠神社の神主海部氏が示された極秘伝には、カゴメ歌に登場する「鶴」とは伊雑宮を指し、「亀」とは籠神社を指すとあった。

ということは、浦島太郎は、籠神社から伊雑宮に行ったことになる。

籠神社から伊雑宮?

伊勢神宮が主にたどった道である。

飛鳥氏が対談した際、八咫烏は、天照大神の大和における御神体の初めての上陸場所は籠神社で、最後の鎮座場所は伊雑宮であると言た。

つまり、浦島太郎物語とは、伊勢神宮を象徴しているのだ。

伊勢神宮の移動とは、もちろん、その神の移動である。

その神とは、天照大神(内宮)と豊受大神(外宮)。

天照大神は明らかにイエス・キリスト。このことは、神社本庁ですら認めている。
http://www.millnm.net/qanda3/96aY9f30GyNs52403.htm

イエス・キリストは、新約の神。飛鳥氏によると、内宮の心御柱は十字架である。

豊受大神は、徐福につれられてきた物部氏の神。海部氏によると、ユダヤの神。紀元前だから旧約の神ということになる。外宮の心御柱は「ヘビの乗った旗ざお」。もちろんモーセのヘビである。

聖書的に言えば、旧約の神と新約の神は同一。

だから、伊勢神宮に祭られている神とは内宮・外宮とも唯一神ヤーウェである。

浦島太郎物語は、伊勢神宮とその神を象徴し、究極的に見れば、聖書の神ヤーウェ、イエス・キリストを象徴しているのだ。

海中は何を意味するのだろうか。乙姫様から歓待を受ける話になっているが、これはおそらく滅びを意味する。

聖書において、海中は契約外の世界、異邦人の世界、つまり、滅びの世界を象徴する。

旧約の預言者ヨナは海中に投棄され、巨大魚に飲み込まれて陸に戻った。「この話は私を象徴している」と、イエス・キリストご自身が言われた。

イエス・キリストは、十字架につかれ、滅んで地獄に堕ち、そこにおいて我々の罪の代価をすべて支払い、そして、復活された。

ヨナが海中から戻る話は、復活を象徴している。同じように、浦島太郎が海から戻る箇所は、復活を表すのだろう。

実は、伊勢神宮も海中を体験する。それが、様々な場所を転々と移る流浪の経験である。五十鈴川のほとりにたどり着くまでの間、伊勢神宮は、滅びを体験したのだ。これは、イエス・キリストを象徴する出エジプトの幕屋が荒野を放浪したことと平行している。

浦島太郎は、最後に鶴になって天に昇る。

これは、言うまでもないが、キリストの昇天を表す。

伊勢神宮はまだ昇天していない。伊雑宮が回復されない限り。

それはいつなのだろう。

 

 

2009年7月12日

 

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