天照大神とイエス・キリスト


驚嘆すべきページがあった。
http://www.tatsu.ne.jp/ise/

ここに、天照大神に関する神社本庁調査部長岡田米夫氏の解説がある。氏は、『大祓詞の解釈と信仰』(神社新報社発行昭和37年7月1日初版発行、平成13年2月1日22版発行)において次のように言われた。


(天照大神の)この神隠れは、国津神スサノオノミコトの罪を、天照大神が徹頭徹尾自らあがなわれ、身を隠されたことを意味する。天照大神はスサノオノミコトの罪を責められず、その改悛(かいしゅん)を最後まで期待されるとともに、常に「むつまじき心もちて相許したもう」という大きな自愛と包容力とをもって、その罪を許し、あがなわれたと書紀に見えている。

 この神隠れした大神の再出現を祈るのが、天の岩戸の祭りであって、その祈りの果てに、天照大神は再び復活され、世にいう天岩戸開きとなる。それ以後、天照大神は永遠に生き神として、輝かしい御光を私共の上に投げかけておられるのである。

天照大神は又スサノオノミコトの罪をあがなうために、一度は神隠れされるが、再び復活されて、人々に「温かい手をさしのべられ、人々の罪を許す神」として今に至って、私共の上に輝きわたられているというのが、民族古典の示すところである。

聖書に親しんだクリスチャンならば、これがイエス・キリストご自身のご生涯を示したものであると思うだろう。

さらに氏は次のように明治天皇及び昭和天皇について言われる。

この天照大神のみ心を継がれることが、その御子孫たる歴代の天皇の大きな使命であったとしてよい。明治天皇が「罪あらば我を咎めよ天津神民は我が身の生みし子なれば」と歌われ、今上陛下が今回の終戦に際し、マッカーサーに対して「我が身はどうなってもかまわぬ。国民を救ってほしい。」と仰せられたという。

この国民の不幸を御自身の責任と感じ、国民の不幸を身をもってあがなわれようとの大み心こそ、天照大神が国津神(国民)の罪を、死をもってあがなわれた、尊い救いの再現ではなかったろうか。祓いはこのようにして、大きな自愛をもって、新しい人生を創造し、人々の罪を進んであがなう、救いと悲願とがこめられているのである。

そして、このページの著者は、次のように適切に言われる。

いかがでしょうか。不思議とは思いませんか。というのも天照大神をイエスに、そして、スサノオノミコトをユダヤ人(全人類)に置き換えたら、この文の伝えようとしていることは、聖書に記されているイエスが十字架にかかったことの意味と全く同じだからです。

皆様、ご承知の通り、イエスはユダヤ人(全人類)の罪を一身に受けて、そのあがないとして十字架にかかり、その死後3日のちに復活したと聖書に記されています。そして、イエスの説いた愛とは許しの思想です。そのことを念頭に今一度上記の文をお読み下さい。

私は、これが日本の国体、天皇制の真の姿だと思う。

日本には、原始キリスト教徒が来、天皇制はもともとキリスト教であったとしか考えられない。

 

天照大神とイエス・キリスト2
天照大神とイエス・キリスト3
日本はキリスト教国であった

 

2008年11月18日

 

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